2. クエスチョニングのすすめ …アンサリングとクエスチョニング
アンサリングとクエスチョニング
すでに絶版になってしまったが、元東京工業大学学長 松田武彦氏の著書に「クエスチョニングのすすめ」という本がある。
クエスチョニングとは、アンサリングに対応する概念であり、アンサリングが「問題に答えること」であるのに対し、クエスチョニングは「未知の状況に答えられる(アンサリング)ように問題という形に作り上げていくこと」を言う。
少々、ニュアンスは違うかもしれないが、身近にある言葉の中から近いイメージの言葉を探すとすれば「課題を形成する」ということになるだろう。
「クエスチョニング」という概念は松田氏がアメリカへ留学された際に初めて出会ったものであり、それまでの常識とはかけ離れた概念であるために強烈な印象をもったという。
松田氏は後に(学)産能大学に迎えられ、私がこの話を聞いたのは10年ぐらい前、(学)産能大学主催で行われたエグゼクティブ・フォーラムの基調講演でのことである。
いろいろな人の話がある中で、全く違う視点から物事をとらえられていたこともあり、とても強く印象に残っていた。
結果的にアイデア・ヒントとして10年間暖めていたことになるが、自分の発想と合わせて一度まとめてみたいと考えつづけていたテーマの一つである。
残念ながら当時私はこの本を入手していなかったので、先輩でもある(学)産能大学の
小玉勝也氏からこの本を借りて初めて読んでみた。
松田氏がアメリカに留学された時のことである。あまりにも周りの人たちが難しい「微分方程式」を解くのに苦労していたので「そんなふうに解けなくて大丈夫か」ときくと「解く人はいくらでもいる。工学現象の微分方程式を作るのが我々エンジニアの仕事であり、解くのは応用数学科などを出た人がやってくれる」という答えが返ってきた、と言う。
日本人が「問題を解くことだけが勉強」だと思って一生懸命勉強に励んでいる時に、アメリカでは「問題を作る」という役割と「問題を解く」という役割に概念も実態も明確に分かれていた、という。ある意味では、この事だけでも十分、驚くに足りることである。
そう言われてよくよく考えてみると、アメリカのスポーツなどは、アメリカン・フットボールもベースボールもオフェンス(攻撃)/ディフェンス(守備)と言う概念がとても明確に別れている。
コーチにしても、作戦、技術、フィジカル、メンタルと言うように細かく役割が別れており、日本のスポーツなどとは組立てが違っている。
確かに役割分担と言うことが明確な国なのだろう。
昔から日本人にとって「勉強」と言えば知識を取り入れること、言い換えればどれだけ多くのことを知っているのかをテストし、そのテストで良い点を取ることが全てであったのではないだろうか。
一生懸命に勉強をして、良い成績をとって、良い就職先を見つけ、出世をする、….etc.
それが筆記試験であれ、面接であれ、とにかく、自分に出された問題を解くこと、問題をうまく解いて良い点数を取ることが勉強の目的になっている。
今では、入社試験用の面接マニュアルまであるのだから採用する側もそういう本に目を通しておかないと騙されてしまう、とはある企業の人事担当者の話である。
大変な時代になっている。
しかし、知識を多く取り入れること自体はあくまでも「手段」でしかなく、その知識を知恵にまで高め、さまざまな物事、未知の状況に適応して初めて勉強の「目的」が達成できるのではないだろうか。
現状は、手段が目的化してしまっており、目的を見失っているとしか思えない。
このように、問題を作ることが専門の人は問題を作ることばかりを勉強し、問題を解くことが専門の人は問題の解き方ばかりを勉強している、などということは我々日本人の理解をはるかに超えている。
どちらが重要で、どちらが難しいかと言えば、言うまでもなくこれは問題を作る方=クエスチョニングと言って良いであろう。
松田氏は、著書の中で問題を作るための情報(外部情報中心であり、入手が困難な分、情報量が少ない)と問題を解くための情報(内部情報中心であり、入手が容易、情報量も豊富)と言うように分けてとらえている。
しかし、単に情報入手の難易だけではなく、問題を解く場合であればすでに「問題」の出題時点で問題の範囲、制約条件などの枠組みが明らかになっている。
したがって、問題を解くためには、限定した枠組みの中だけで物事を考えていけば良い。しかも、通常は問題の中に問題を解くためのヒント・条件などが必ず入っているものである。
一方、問題を作る方には、はじめからそのような枠組みはなく、自分で問題の範囲、制約条件などの枠組みを設定していくところからスタートしていかなければならない。
まさに問題を解く=アンサリングは「下絵が描いてある塗り絵に色を塗る」こと、問題を作る=クエスチョニングは「真っ白なキャンバスに絵を描く」こと、というほどの違いがある。
これだけでもとても大きな違いと言えるが、具体的に進めることを考えると、そのように単純なものではなく、状況の認識・解釈、テーマの設定、範囲・制約条件の設定、要素のリスト・アップ、構造・メカニズム・プロセスなどの想定、情報収集、…etc.と言うように作業の質・量ともに次元が違う事が分かる。
私も学生時代に恩師である芝浦工業大学の津村豊治教授(当時)から「問題の記述=事実を正しく認識し、整理することができたら、その問題の8割は解けたも同じだ」というように習ってきた。
言葉は違っても二人が言っていること、内容には相通ずるものがある。
「物事の本質」に近づいた人は皆似たような視点・発想を持つようになるのかもしれない。(2人に共通することには経営工学を専攻していると言う点もある。)
アンサリングの限界
我々の間では、よく「何が問題か分からないのが問題だ」などという言い方をすることがある。
何かおかしい、どうにかしなければならない、と言う状況がある。しかし、何が問題なのか分からないから手のつけようが無い。まさに「問題の記述ができない」「課題の形成ができない」のである。
問題さえ出してくれれば解く訓練はできているからどうにかなるが、問題を出してもらえなければ解きようが無い。
アンサリングの悲しい所である。アンサリングは受け身でしかない。
日本における教育は、小さな時から一貫して一つの型にはめ、アンサリングの訓練をさせてきた、と言う歴史を持っている。
当然、「問題を上手く解く」というところに評価基準があるので、「問題を解くことの上手い人間は成績が良い」、ということになる。
一方、いわゆる「勉強」が嫌いであり、「まんべんなく問題を解くこと」が嫌い、あるいは「問題を作る(そこまで意識としてははっきりしていないが)その入口付近にいる」方が好き、と言う人間は「変わった人間」ということで評価されにくい仕組になっている。
しかし、一度、未知の世界へ放り出されてしまうと状況は一変する。
誰も問題を出してくれない状況で、明確に問題を認識できないから答えることもできなくて頓挫してしまうのはアンサリングで育ってきた人たちである。
自分で問題を作り上げるようなクエスチョニングの訓練ができていないからせっかくの勉強の成果も発揮することができなくなってしまう。
子供の時からずっと「成績が良かった人間」がある時何もできない無力な人間ということになってしまう。「出された問題を解くことだけ」を専門にやってきたことの限界である。
クエスチョニングのすすめ
一方、このように枠組みのない状態になると生き生きとしてくる人たちもいる。クエスチョニング・タイプの思考法を持っている人たちである。
アンサリングで育ってきた人たちが成すすべもなくたたずんでいる時に、いろいろなことを調べてみたり、実験を始めたりしだす。
いろいろと疑問を抱き、議論をし、自分で仮説を設定し、その仮説を実験や観察で検証していく。
このようにして考えてみると、日本において「成績が良い」ことの価値も半減してしまう。
昔から、よく日本人は他人の真似がうまく、海外で開発した技術の真似をしては製品を作り、手先の器用さとコストの安さで世界に進出している、と言われている。
基礎研究=物事の原理、構造などに関する研究は遅れているが、欧米が行って明らかになった基礎研究の結果を基にしてさまざまな製品化を図る応用研究については長けている。
このような点も、アンサリングをずっと行ってきたことと相通ずる部分があるのだろう、と松田氏もその著書の中で指摘している。
基礎研究の方が応用研究よりもはるかに時間がかかるために、いつまでも他人が開発するのを待っているわけにはいかない。いずれ、自らテーマを探し、自ら研究方法を工夫し、自ら基礎研究をやらなければならない時は来る。
いずれにせよ、未知のものに対してクエスチョニングで対応することが必要となる時が必ず来る。
そういう意味では、学生教育も社会人教育も本質的には同じような課題に直面している。
今年教えた学生にアンケートを取ったら「講義よりも自分でレポートのテーマを決め、自分で調べてレポートを書き上げたことの方が勉強になった」と書いてきた学生がいた。
講義で得る机上の知識よりも「自分でレポートの仕上げ方=勉強の仕方、方法(自分でテーマを見つけ、自分で調べる項目を決め、自分でその項目について調べ、自分の論理に従ってレポートとしてまとめ上げる)を身につけたことの方が為になった」と感じる学生が出てきたことは教える側にとっても喜びである。
アンサリングでズーッと育ってきた学生には多分とても新鮮なことなのだろう。
早急に「クエスチョニング」のトレーニングを強化しなければならないと言うことであろう。(思考方法の訓練だから「勉強 」ではなく「トレーニング」である。)
クエスチョニングのトレーニングは早ければ早い方が良いと思う。
理由は簡単である。問題を出さなければ答えられないのだからクエスチョニングの方を優先し、アンサリングよりも早くトレーニングした方が良いと考えるのである。
基本的にクエスチョニングは未知のものを相手にし、アンサリングは、既知のもの(あるいは、既知のものの組み合わせ)を相手にする。
特に思考方法のことである。一度アンサリングで固まってしまった人がそのままの思考方法、ロジックでクエスチョニングに対応することは不可能に近いといっても良いだろう。
逆に、クエスチョニングから入っていった人であればアンサリングに対応することは容易である。 理由はクエスチョニングの要素の中に「答えや解き方=アンサリング」が含まれているからである。
「問題を作る」ためには必ず答えや解き方に関する仮説が必要になる。
どのような「 解 」のバリエーションがあるのか,その問題は「問題として適切か」「正しい問題か」、ということをあらかじめ「仮説-実験-検証」という手順によってシミュレーションを行い、検証しておくことが必要になることすらあるだろう。
我々がコンサルテーションを行う時も同様である。
クライアントとの打合わせ、ミーティングの中で直感的に「答え」「解き方」に対して仮説を立てることができた仕事は、企画書作成も容易にでき、プロジェクトも良い結果につながる。
この場合の企画書、プログラムは「解」「答え」にたどり着くための考え方・仮説・手順・方法などの「解き方」を整理したものである。
重要なことは、「答え」や「解き方」に対する仮説が設定できるどうかであり、「提起した問題を記述する」ことで問題を定義し、問題として解ける形にまで仕立て上げることができるかどうかである。
一方、どんなに打合わせをしても、答えがイメージできない、見えてこない場合には、企画書を作ることがとても困難になる。
定型の研修プログラムであれば切り張りをしたり、どこかからコピーでも持ってくればことたりるが、コンサルテーションともなるとそうは行かない。
まさに企画書、プログラムが「問題の記述」「問題の定義」そのものであり、問題の記述・定義ができなければコンサルテーションどころか何に対しても手も足も出ない。
アンサリングは既知のものの組み合わせでしかないから定型的であり、横並びで評価するような絶対的評価を下しやすい。
受験生を横並びにして評価するためにはとても便利な手法であるかもしれない。
しかし、問題の解き方はいくら上手くなっても、問題があって初めて使えるものであり、アンサリングのトレーニングをいくら繰り返してみても、発展性があるとは言えない。
一方、クエスチョニングは非定型である。
未知のものから「問題の記述」「問題の定義」をし、「問題を作り上げる」のであるからそもそもテーマ自体が相対的である。
さらにその問題に対し、どう対処するのかも相対的に決まるものであるから「絶対的な解」を持たない。
あくまでもそこにあるのは、「相対的な解」であり、適切/不適切、上手い/下手という違いはあるかもしれないが、「唯一絶対の解が存在し、それ以外は全部間違い」ということにはならない。
これが「クエスチョニング」と「アンサリング」との大きな違いである。
我々の周りには多くの人々がおり、さまざまな状況がある。
しかし、その多くの人々が、子供の頃から「アンサリング」中心の教育を受け、発想、ロジックが片寄っている社会構造はいろいろな意味でバランスを欠くことになる。
やはり、「唯一絶対」という解に対して疑問を提示し、「問題自体に対する適切さ」「問題としての正しさ」を議論できるような幅広い視点を養うためのトレーニングがさまざまな段階で急務である。
機械だけのPOSシステム、アメリカの模倣だけを志向する業態開発、安さと人員削減だけを志向するLow Cost Operation、….etc.
今、小売業に必要とされているのは、まさにクエスチョニング的な発想・思考方法ではないだろうか。
(1997年6月)